リストラ(を食らった人たち)の思い出
久々の土日のキチンとした休みに溜まっていた録画ビデオを消化していたりしました。
その中で2/25放送の「ねほりんぱほりん」、「リストラの担当者」の回を見てて、1992年の出来事が鮮明に思い出されたので、そろそろ糞日記に書いておこうと思いました。
その中で2/25放送の「ねほりんぱほりん」、「リストラの担当者」の回を見てて、1992年の出来事が鮮明に思い出されたので、そろそろ糞日記に書いておこうと思いました。
【バブル崩壊】
1991年にバブルが崩壊し(正確には1990年)、IT(コンピュータ)業界は少し遅れた1993年位に完全にコゲつく感じで絶不況が訪れました。(会社の規模により早くやってきていた)
当時私が所属していた会社は超零細企業だったので1990年の夏には軽い余波は来ており、1991年の新入社員(新卒)は多少取ったものの、1990年の56人に比べて1991年は7人(それも野郎のみw)と思いっきり下がり、1992年は踏ん張りで18人(こちらは可愛い女性多しw)の水準となりました。
更に言うと、そして1993年0人、1994年1人、1995年7人と2001年のITバブルまで細々と新入社員を増やしていく感じになっていました。(自分で書いてて「新卒の入社人数よく覚えてんなぁ~」って感じですが)
1990年春の時点で会社は創業10年目となり、バブル期の成長もあってイケイケ状態だったため、3桁(前半の方)の社員数になっていました。業績も絶好調だったため、功績として事業所を神奈川(藤沢, 厚木)、茨城(鹿島)、山形(鶴岡)と数拠点設け、社員寮もいくつか作り(マンション買い上げたり、アパートもいくつか契約)、子会社も作り始めていました。(ソフト開発を主軸に技術研究のハードウェア系子会社)
そこにバブルの崩壊が起きました。IT業界の不況はおおよそ2~3年に後から来ると言われており、初めての大不況で会社が一気に傾きました。
(IT業界の不況の波が数年遅れる判断は最初のバブル崩壊にて日本人が学んだ経験則で、大手程余波が遅い。その後1997年、2000年、2008年と同じ状況になっている。ただし回を重ねるごとに影響が少ない感じではある)
【社長の腕が問われる】
会社が超零細企業だったため、大手からの受注が徐々にストップしてきました。1990年から派遣でオフコンのOS開発(UNIX System IIIをベル研究所からライセンス契約したカーネルを改造してオフコンに載せる開発。言語はC言語とSystem/370のアセンブラ)を行っていた私は、この開発から外され、1992年に自社(厚木)に戻ることに。
自社に戻るも、これまでやっていたような仕事もなく、まだこの時代は世の中的にパソコン(マイコン)で組むソフトの方よりも、メインフレーム(汎用機)で行う仕事の方が需要が多い上に受注金額も高かった感じで(言語も情報処理系はCOBOL, PL/I, RPGなどのものが多かった。要はIBMの天下だった)、配属されたところはIBMのAS/400でRPGで帳票を作る仕事を主にしていました。
1992年の時点で「これからはパソコンの時代だ。」とX68000やPC-9801を使っていた私は、将来ゲーム業界に行くためにグラフィック系の勉強をしており、社長にも「将来は君のようなパソコン坊やが技術を引っ張っていくんだ。」みたいな感じで期待され、その手の仕事の受注を上司に命令していました。
しかし、そうはいっても安いパソコンの仕事は微々たるもので、私のようにパソコンに詳しい人間には仕事は入るものの、汎用機系の仕事は一気に失速していきました。(逆に翌年のWindows 3.1により、パソコンの仕事が一気に加速していった)
社長は地域密着型の経営をしていたので、そこらじゅうの企業を駆け回ってソフト開発の仕事がないか営業をしました。
しかし、1991年からどこも不況ということで、1.5年経過した1992年でも中々案件獲得ができなくなり、自分の資産(鎌倉の一等地の自宅)も抵当にかけることも念頭に置き始めました。
また、事業所を一部閉鎖し、大手会社の工場に「工場専属の開発部隊を置くことを条件」に社員スペースを確保していただいたりしながら、固定費の削減を切りに切り詰めました。
この社長は起業前はコカ・コーラボトラーズジャパン 海老名工場の経理のトップをやっており、ソフト会社のプロではありませんが金勘定のプロで、このあたりの経費の切り詰め方はプロ中のプロでした。また、バブルが弾ける前に一回、ソフト開発というものを理解していない状況で会社をコゲつかせた経験があり、そのときも立て直した「引きの良さ」も持ち合わせています。
しかし、そこまでやりくりしても仕事の受注は厳しい状況でした。なお、近隣のソフト屋は次々倒産している状況で、1992年の時点で田舎の零細企業が生きていることがある意味奇跡という状況でした。
少し話が変わり、会社はこの時期(1991年)に「とあるゴルフシミュレータシステム」を自社開発するため、辺鄙なところ(駅から歩いて1.5時間以上のところ)に大きな倉庫を借りていました。3人くらいがここで開発をしており、変わり者3人が倉庫に引きこもってよく分からないゴルフシミュレータシステムを作っていたため、社内ではこの倉庫を「サティアン」と呼んでいました。(もちろん"あの"サティアンで、その比喩が似合うような倉庫であり、天井は無骨な鉄骨。トイレは公園の公衆便所よりも汚い、男女共用のところでした)
社長はついに本拠地を捨て、サティアンに事務所を移さないとならない状況ギリギリまで迫られており、もしサティアンを本社にしてしまうと、「まず女性社員は全員辞めるだろうな。こんな汚い倉庫が会社なんて。便所も最悪だし。」と言われ、これまで駅から徒歩5分の立地からバスで30分位、しかもなかなかバスが来ないような場所とあれば、「男性社員もこのコゲついた会社(ドロ船)から離脱するだろうな。」と管理職達に言われていました。
「社員は宝」という素晴らしいポリシーを持っていた社長だけに、「全滅は避けたい…」かといって、自分の土地を抵当にかけたところで、「いつ景気が戻るか分からない…」ついに社長は苦渋の決断を強いられることになりました。
ちなみにここまででやれるコストカットはそれはもう、凄い(素晴らしい)ものでした。流石経理上がりだけあって、何がどれだけかかるのか、算盤を叩かなくても経験値から指示できるレベルでした。
また、素晴らしいのは、この強要は下のクラス(管理職未満)には気づかせないように実施しました。私はたまたま上司が社長直属の部下だった(会社創立時のNo.5だった)ので、上司からそれを聞かされていた感じです。当時はガキの私に。
【リストラを実行】
「最もコストが高いのは人件費である。」これは1991年に上司から(=社長→上司)教えていただいたことで、更にこの時代に先端行く形でコンピュータ業界のオフショア(当時はまだこの呼ばれ方をしていない)を中国で展開していました。(中国人社員も1989年に入社させていた)
「品質を問わない業務は人件費が安い海外発注で良い」という方針を持ち、可能ならなんでも「海外に出せ。ついでに一緒に行って語学の勉強をしてきなさい。」位の人だったので、海外よりも高い「宝である社員の人件費のコストカット」にいよいよ入ることになりました。
リストラ開始です。
ちなみに1990年台なので「労働契約法」はまだないです。
ここからはリストラを執行した私の元上司の生々しい話、そして「俺、こんな役やりたくねーよ…」と私にコボした話を元に再現します。
正直、ねほりんぱほりんのソレよりもエグい内容です。
まず最初に、原資が幾ら足りないか管理職会議で話し合いを行います。ただし、今回のターゲットには管理職も含まれるので(というかまず最初は管理職から消すので)、集める人はリストラ対象外の人間のみで行います。
ターゲットの選定は「これまであまり業績がない社員」「今後伸びしろがない社員」「家族がいる社員」です。特に勤続年数は気にしません。なぜなら、「色を付けて退職金上乗せなどがないからです。」流石に、まだ会社がマイナス状態ではないので、積み立てた退職金は切り崩しておらず、これだけは支払います。
番組では「退職金の上乗せ」がありましたが、
私のいたところではそんな美味い話すらなかった。
数名のターゲットが決まったら、事業所ごとに執行人を2名体制で実行します。ただし同時に2名で担当するのではなく、交互に面談を行います。1人1名対応です。

俗にいう「肩たたき」です。
マイルドな場合は「部署異動(→窓際族に転身)」ですが、
リストラは「解雇」です。
交互に執行とはいえ、事態は逼迫しているので、「今日は○○○と面談、来週は×××と面談。」みたいな悠長なことはやってられません。数名を3日以内に執行です。また、対象者連中に気づかれてはいけません。超可及的速やかに可能な限りです。気取った言い方なら「ASAP (As Soon As Possible)」です。
その迅速レベルは後述します。
まずターゲットの肩を叩いて小声で呼び出します。周りには気付かれないように…です。
(私は上司から聞いてしまっていたので、その様を側で見ていて((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル状態でした)
ここで対象者のステータスを。
【リストラターゲット Aさん】
(1) 30代。
(2) 既婚者(子供はいたのかは不明)。
(3) 課長職。
(4) 部下2人ほど。
(5) 売上がなく、部下2名は暇をぶっこいている。
部下は一日中「プリンス・オブ・ペルシャ」で遊んでいた。
(6) 物腰が柔らかい。
(7) 特にコンピュータに明るいわけでもなく、時代的に
「これからはコンピュータの時代だよね」的な人。
エンジニアでもなければ特に営業ができるわけでもない。
というステータスです。
このときは(2), (3), (5), (6), (7)の条件がヒットして対象者となりました。
「(6) 物腰が柔らかい」は「歯向かってこずに言いやすい」からだそうです。
ねほりんぱほりんでは、まず相手に何か話をさせる戦法と取っていましたが、上司たちの場合は違いました。
こちらから議題を出して、それに回答できるか否かという方法でした。

「リーダー」としてというより、もっとストレートな質問が…
面談の議題は至ってシンプル。
(1) 今後やっていきたいことはあるか?
(2) そのやっていきたいことは事業として展開してお客を付けたり、
売上を上げる算段はあるか?
です。
ようは「企画力」、「営業力」を試された感じです。
普通のサラリーマンなら「まず回答に詰まるような内容」です。野心家でもなければ答えることは難しい気がします。
面談側は解雇する気満々なので、上述のステータスの(5), (7)が担保できていない時点で、回答があるなど微塵も思っていません。
もちろんAさんの回答は、「う~ん、特にこれといって、やって行きたいこととか無いですね…」 という回答だったとのことです。
以下、上司から聞いた感じのやり取り。(喋り方は少し雰囲気盛ってますw …が、こんな事やりとりをしたとのこと)
上司:「そうか… 部下がいるけど、部下に何かさせたいとかも無い感じ?」
Aさん:「そうですねぇ~」
上司:「そうか… だったら、今日で辞めてもらえるかな?」
Aさん:「えっ? 今、なんて…」
上司:「悪いんだけど、今日で解雇にさせてもらう。会社の経営がかなり厳しいんだ。
事務処理は総務に任せてあるから、明日から来なくていいよ。」
Aさん:「そんな… そんな事ってあるんですか?」
上司:「悪い。会社にとって必要な社員のみ残せという社長の命令なんだ。」
Aさん:「そうですか… 分かりました…」

どう転んでも最後はこのような事を言わないとならない…
面談終了後にAさんが戻ってきて私の隣で即「自席の整理」をし始めました。かなり悔しかったのか、悔し泣きをしながら文房具などをカバンに詰めているのを見て、物凄くいたたまれなくなりました。そして定時前に荷造りができ、定時を待たずに会社のドアを物凄い勢いで
「バ タ ン ! ! !」
と音を立てて出ていきました。部下を含め誰にも挨拶すらせずに何も言わずに出ていったため、周りは「なんだ?なんだ?( ゚д゚)ポカーン」となりました。
この間、呼び出されから1時間位の出来事でした。
私はこの結果に、
「(これって、明日は我が身なのかな…
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)」
となりました。
しかし、上司(ともう一人執行者の部長)は立て続けにリストラを実施しました。メインで消したい人間をサッサと消しておかないと皆が身構えるからとのことでした。
次は入社3年目の20代中盤の社員でした。未婚で管理職でなくても実行されたので、これには面を喰らいました。この方は、私がいつも一緒にいた1年先輩のUさんの同期(Uさんは私と同じ派遣先で仕事してて、私と一緒に厚木の部署にやってきた)で、同じように荷造りをして出ていきました。(この方と私は殆ど面識がなく、私が派遣先から戻ってすぐの出来事だった)
Uさんは上司からこの情報を聞かされていなかったため(実は私が深夜残業していた時に上司から「誰もいないから教えてやるけど、誰にも言うなよ」と釘を差されていた)、Uさんも側でこの光景を見てて、「えっ?さっきから何が起きてるの???」となり慌ててたので、私がUさんを呼び出して今起きていることを教えてあげました。まるでポルナレフ状態です…
事のいきさつ聴いたUさんは「なんだよ、この会社はよ!信じらんねーよ!」と怒り狂い、なだめるのが大変でした。
また、他の部署(事業所)でも同じようなことが行われ、「退職金に色も付かない条件」に抵抗した人もいたとのことでした。しかし、そのような方は「ボーナスをどんどん減らす戦法」に当てられ、2年位会社にしがみついていましたが、最後は辞めていきました。(1995年位に風の噂でやめた事を知った感じです。この方はサティアンで仕事していた変わった人の一人で、私のスキルをどこかで聞いて一回だけサティアンに呼び出されて仕事をした時に知り合って意気投合した方だったので少し残念でした。この仕事は893が絡んでいた仕事で、なかなかセンシティブだったので、それはまたそのうち記録に残したいものです)
結果、相当数の無能社員管理職をリストラしたお陰で、会社がかなり持ち返しました。上司曰く「あの会社から案件もらうために、あの会社からオジ捨て山として入社させたジーさんを切っただけで、2年で○千万浮いたってスゲーよな。」みたいなエグい話を後から聞けたりしました。こんな零細企業でコレなんだから、今いる会社でコレやったら○○億浮いたとか言えそうw
◇ ◇ ◇
という感じで、このようなことを30年前に体験していて、これら行動が私の中の「コストカット」の起源となっています。
1990年代は「唐突に会社が倒産する」なんてザラでしたが(ゲーム業界ではよく語り継がれているのを昔から見ているし)、倒産前のドロドロ劇の方が個人的にはエグいし、それが今では持ち返して、割と健全に経営していると思うと、その会社に黒歴史アリって感じです。(といっても当事者はほぼ残っていない。上司もとっくの昔に私よりも先に会社で作った愛人と一緒に辞めているのですが)
いま所属しているところは「会社が潰れるときは日本が潰れる時」と幹部連中は誰もがそう思っているようなので、そのようなお花畑でしか育ってない人間には、このようなスラムで起きた事なんて想像もつかないんだろうな…と本番組を見て、過去を鮮明に思い出した次第です。
人生は何事も経験だっ!(…って、こんな経験はしたくないかもね)
1991年にバブルが崩壊し(正確には1990年)、IT(コンピュータ)業界は少し遅れた1993年位に完全にコゲつく感じで絶不況が訪れました。(会社の規模により早くやってきていた)
当時私が所属していた会社は超零細企業だったので1990年の夏には軽い余波は来ており、1991年の新入社員(新卒)は多少取ったものの、1990年の56人に比べて1991年は7人(それも野郎のみw)と思いっきり下がり、1992年は踏ん張りで18人(こちらは可愛い女性多しw)の水準となりました。
更に言うと、そして1993年0人、1994年1人、1995年7人と2001年のITバブルまで細々と新入社員を増やしていく感じになっていました。(自分で書いてて「新卒の入社人数よく覚えてんなぁ~」って感じですが)
1990年春の時点で会社は創業10年目となり、バブル期の成長もあってイケイケ状態だったため、3桁(前半の方)の社員数になっていました。業績も絶好調だったため、功績として事業所を神奈川(藤沢, 厚木)、茨城(鹿島)、山形(鶴岡)と数拠点設け、社員寮もいくつか作り(マンション買い上げたり、アパートもいくつか契約)、子会社も作り始めていました。(ソフト開発を主軸に技術研究のハードウェア系子会社)
そこにバブルの崩壊が起きました。IT業界の不況はおおよそ2~3年に後から来ると言われており、初めての大不況で会社が一気に傾きました。
(IT業界の不況の波が数年遅れる判断は最初のバブル崩壊にて日本人が学んだ経験則で、大手程余波が遅い。その後1997年、2000年、2008年と同じ状況になっている。ただし回を重ねるごとに影響が少ない感じではある)
【社長の腕が問われる】
会社が超零細企業だったため、大手からの受注が徐々にストップしてきました。1990年から派遣でオフコンのOS開発(UNIX System IIIをベル研究所からライセンス契約したカーネルを改造してオフコンに載せる開発。言語はC言語とSystem/370のアセンブラ)を行っていた私は、この開発から外され、1992年に自社(厚木)に戻ることに。
自社に戻るも、これまでやっていたような仕事もなく、まだこの時代は世の中的にパソコン(マイコン)で組むソフトの方よりも、メインフレーム(汎用機)で行う仕事の方が需要が多い上に受注金額も高かった感じで(言語も情報処理系はCOBOL, PL/I, RPGなどのものが多かった。要はIBMの天下だった)、配属されたところはIBMのAS/400でRPGで帳票を作る仕事を主にしていました。
1992年の時点で「これからはパソコンの時代だ。」とX68000やPC-9801を使っていた私は、将来ゲーム業界に行くためにグラフィック系の勉強をしており、社長にも「将来は君のようなパソコン坊やが技術を引っ張っていくんだ。」みたいな感じで期待され、その手の仕事の受注を上司に命令していました。
しかし、そうはいっても安いパソコンの仕事は微々たるもので、私のようにパソコンに詳しい人間には仕事は入るものの、汎用機系の仕事は一気に失速していきました。(逆に翌年のWindows 3.1により、パソコンの仕事が一気に加速していった)
社長は地域密着型の経営をしていたので、そこらじゅうの企業を駆け回ってソフト開発の仕事がないか営業をしました。
しかし、1991年からどこも不況ということで、1.5年経過した1992年でも中々案件獲得ができなくなり、自分の資産(鎌倉の一等地の自宅)も抵当にかけることも念頭に置き始めました。
また、事業所を一部閉鎖し、大手会社の工場に「工場専属の開発部隊を置くことを条件」に社員スペースを確保していただいたりしながら、固定費の削減を切りに切り詰めました。
この社長は起業前はコカ・コーラボトラーズジャパン 海老名工場の経理のトップをやっており、ソフト会社のプロではありませんが金勘定のプロで、このあたりの経費の切り詰め方はプロ中のプロでした。また、バブルが弾ける前に一回、ソフト開発というものを理解していない状況で会社をコゲつかせた経験があり、そのときも立て直した「引きの良さ」も持ち合わせています。
しかし、そこまでやりくりしても仕事の受注は厳しい状況でした。なお、近隣のソフト屋は次々倒産している状況で、1992年の時点で田舎の零細企業が生きていることがある意味奇跡という状況でした。
少し話が変わり、会社はこの時期(1991年)に「とあるゴルフシミュレータシステム」を自社開発するため、辺鄙なところ(駅から歩いて1.5時間以上のところ)に大きな倉庫を借りていました。3人くらいがここで開発をしており、変わり者3人が倉庫に引きこもってよく分からないゴルフシミュレータシステムを作っていたため、社内ではこの倉庫を「サティアン」と呼んでいました。(もちろん"あの"サティアンで、その比喩が似合うような倉庫であり、天井は無骨な鉄骨。トイレは公園の公衆便所よりも汚い、男女共用のところでした)
社長はついに本拠地を捨て、サティアンに事務所を移さないとならない状況ギリギリまで迫られており、もしサティアンを本社にしてしまうと、「まず女性社員は全員辞めるだろうな。こんな汚い倉庫が会社なんて。便所も最悪だし。」と言われ、これまで駅から徒歩5分の立地からバスで30分位、しかもなかなかバスが来ないような場所とあれば、「男性社員もこのコゲついた会社(ドロ船)から離脱するだろうな。」と管理職達に言われていました。
「社員は宝」という素晴らしいポリシーを持っていた社長だけに、「全滅は避けたい…」かといって、自分の土地を抵当にかけたところで、「いつ景気が戻るか分からない…」ついに社長は苦渋の決断を強いられることになりました。
ちなみにここまででやれるコストカットはそれはもう、凄い(素晴らしい)ものでした。流石経理上がりだけあって、何がどれだけかかるのか、算盤を叩かなくても経験値から指示できるレベルでした。
また、素晴らしいのは、この強要は下のクラス(管理職未満)には気づかせないように実施しました。私はたまたま上司が社長直属の部下だった(会社創立時のNo.5だった)ので、上司からそれを聞かされていた感じです。当時はガキの私に。
【リストラを実行】
「最もコストが高いのは人件費である。」これは1991年に上司から(=社長→上司)教えていただいたことで、更にこの時代に先端行く形でコンピュータ業界のオフショア(当時はまだこの呼ばれ方をしていない)を中国で展開していました。(中国人社員も1989年に入社させていた)
「品質を問わない業務は人件費が安い海外発注で良い」という方針を持ち、可能ならなんでも「海外に出せ。ついでに一緒に行って語学の勉強をしてきなさい。」位の人だったので、海外よりも高い「宝である社員の人件費のコストカット」にいよいよ入ることになりました。
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ちなみに1990年台なので「労働契約法」はまだないです。
ここからはリストラを執行した私の元上司の生々しい話、そして「俺、こんな役やりたくねーよ…」と私にコボした話を元に再現します。
正直、ねほりんぱほりんのソレよりもエグい内容です。
まず最初に、原資が幾ら足りないか管理職会議で話し合いを行います。ただし、今回のターゲットには管理職も含まれるので(というかまず最初は管理職から消すので)、集める人はリストラ対象外の人間のみで行います。
ターゲットの選定は「これまであまり業績がない社員」「今後伸びしろがない社員」「家族がいる社員」です。特に勤続年数は気にしません。なぜなら、「色を付けて退職金上乗せなどがないからです。」流石に、まだ会社がマイナス状態ではないので、積み立てた退職金は切り崩しておらず、これだけは支払います。
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私のいたところではそんな美味い話すらなかった。
数名のターゲットが決まったら、事業所ごとに執行人を2名体制で実行します。ただし同時に2名で担当するのではなく、交互に面談を行います。1人1名対応です。

俗にいう「肩たたき」です。
マイルドな場合は「部署異動(→窓際族に転身)」ですが、
リストラは「解雇」です。
交互に執行とはいえ、事態は逼迫しているので、「今日は○○○と面談、来週は×××と面談。」みたいな悠長なことはやってられません。数名を3日以内に執行です。また、対象者連中に気づかれてはいけません。超可及的速やかに可能な限りです。気取った言い方なら「ASAP (As Soon As Possible)」です。
その迅速レベルは後述します。
まずターゲットの肩を叩いて小声で呼び出します。周りには気付かれないように…です。
(私は上司から聞いてしまっていたので、その様を側で見ていて((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル状態でした)
ここで対象者のステータスを。
【リストラターゲット Aさん】
(1) 30代。
(2) 既婚者(子供はいたのかは不明)。
(3) 課長職。
(4) 部下2人ほど。
(5) 売上がなく、部下2名は暇をぶっこいている。
部下は一日中「プリンス・オブ・ペルシャ」で遊んでいた。
(6) 物腰が柔らかい。
(7) 特にコンピュータに明るいわけでもなく、時代的に
「これからはコンピュータの時代だよね」的な人。
エンジニアでもなければ特に営業ができるわけでもない。
というステータスです。
このときは(2), (3), (5), (6), (7)の条件がヒットして対象者となりました。
「(6) 物腰が柔らかい」は「歯向かってこずに言いやすい」からだそうです。
ねほりんぱほりんでは、まず相手に何か話をさせる戦法と取っていましたが、上司たちの場合は違いました。
こちらから議題を出して、それに回答できるか否かという方法でした。

「リーダー」としてというより、もっとストレートな質問が…
面談の議題は至ってシンプル。
(1) 今後やっていきたいことはあるか?
(2) そのやっていきたいことは事業として展開してお客を付けたり、
売上を上げる算段はあるか?
です。
ようは「企画力」、「営業力」を試された感じです。
普通のサラリーマンなら「まず回答に詰まるような内容」です。野心家でもなければ答えることは難しい気がします。
面談側は解雇する気満々なので、上述のステータスの(5), (7)が担保できていない時点で、回答があるなど微塵も思っていません。
もちろんAさんの回答は、「う~ん、特にこれといって、やって行きたいこととか無いですね…」 という回答だったとのことです。
以下、上司から聞いた感じのやり取り。(喋り方は少し雰囲気盛ってますw …が、こんな事やりとりをしたとのこと)
上司:「そうか… 部下がいるけど、部下に何かさせたいとかも無い感じ?」
Aさん:「そうですねぇ~」
上司:「そうか… だったら、今日で辞めてもらえるかな?」
Aさん:「えっ? 今、なんて…」
上司:「悪いんだけど、今日で解雇にさせてもらう。会社の経営がかなり厳しいんだ。
事務処理は総務に任せてあるから、明日から来なくていいよ。」
Aさん:「そんな… そんな事ってあるんですか?」
上司:「悪い。会社にとって必要な社員のみ残せという社長の命令なんだ。」
Aさん:「そうですか… 分かりました…」

どう転んでも最後はこのような事を言わないとならない…
面談終了後にAさんが戻ってきて私の隣で即「自席の整理」をし始めました。かなり悔しかったのか、悔し泣きをしながら文房具などをカバンに詰めているのを見て、物凄くいたたまれなくなりました。そして定時前に荷造りができ、定時を待たずに会社のドアを物凄い勢いで
と音を立てて出ていきました。部下を含め誰にも挨拶すらせずに何も言わずに出ていったため、周りは「なんだ?なんだ?( ゚д゚)ポカーン」となりました。
この間、呼び出されから1時間位の出来事でした。
私はこの結果に、
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)」
となりました。
しかし、上司(ともう一人執行者の部長)は立て続けにリストラを実施しました。メインで消したい人間をサッサと消しておかないと皆が身構えるからとのことでした。
次は入社3年目の20代中盤の社員でした。未婚で管理職でなくても実行されたので、これには面を喰らいました。この方は、私がいつも一緒にいた1年先輩のUさんの同期(Uさんは私と同じ派遣先で仕事してて、私と一緒に厚木の部署にやってきた)で、同じように荷造りをして出ていきました。(この方と私は殆ど面識がなく、私が派遣先から戻ってすぐの出来事だった)
Uさんは上司からこの情報を聞かされていなかったため(実は私が深夜残業していた時に上司から「誰もいないから教えてやるけど、誰にも言うなよ」と釘を差されていた)、Uさんも側でこの光景を見てて、「えっ?さっきから何が起きてるの???」となり慌ててたので、私がUさんを呼び出して今起きていることを教えてあげました。まるでポルナレフ状態です…
事のいきさつ聴いたUさんは「なんだよ、この会社はよ!信じらんねーよ!」と怒り狂い、なだめるのが大変でした。
また、他の部署(事業所)でも同じようなことが行われ、「退職金に色も付かない条件」に抵抗した人もいたとのことでした。しかし、そのような方は「ボーナスをどんどん減らす戦法」に当てられ、2年位会社にしがみついていましたが、最後は辞めていきました。(1995年位に風の噂でやめた事を知った感じです。この方はサティアンで仕事していた変わった人の一人で、私のスキルをどこかで聞いて一回だけサティアンに呼び出されて仕事をした時に知り合って意気投合した方だったので少し残念でした。この仕事は893が絡んでいた仕事で、なかなかセンシティブだったので、それはまたそのうち記録に残したいものです)
結果、相当数の
という感じで、このようなことを30年前に体験していて、これら行動が私の中の「コストカット」の起源となっています。
1990年代は「唐突に会社が倒産する」なんてザラでしたが(ゲーム業界ではよく語り継がれているのを昔から見ているし)、倒産前のドロドロ劇の方が個人的にはエグいし、それが今では持ち返して、割と健全に経営していると思うと、その会社に黒歴史アリって感じです。(といっても当事者はほぼ残っていない。上司もとっくの昔に私よりも先に会社で作った愛人と一緒に辞めているのですが)
いま所属しているところは「会社が潰れるときは日本が潰れる時」と幹部連中は誰もがそう思っているようなので、そのようなお花畑でしか育ってない人間には、このようなスラムで起きた事なんて想像もつかないんだろうな…と本番組を見て、過去を鮮明に思い出した次第です。
人生は何事も経験だっ!(…って、こんな経験はしたくないかもね)
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